2007年11月09日

タウトが撮ったニッポン

タウトが撮ったニッポン」
武蔵野美術大学出版局刊
酒井道夫・沢良子(編)
価格1980円
http://www.musabi.co.jp/books/163175/index.html

ブルーノ・タウトは、クラフト・インテリア・建築系の出身者のある年代より上の層であれば、名前を知らなければいけない存在であった。彼自身は建築家であるのだが、日本では、「日本文化私論」「日本美再発見」等の著作で知られ、仙台の工芸指導所、高崎の工芸試験所で日本の工芸の再評価と改良指導と、桂離宮の再評価を行ったガイジンデザイナーという理解が一般的だったのではないだろうか。
ブルーノ・タウト。和辻哲郎。柳宗悦。等の日本発見組の著作を通過しながら、桂離宮、日本の民芸等を評価し、戦後の川添登から黒川紀章へとがる、日本のデザインに自身を持とう・・・・という一連のつながりがあったといえる。バウハウス、コンテンポラリーなアメリカンデザイン、スカンディナビアデザイン、イタリアンデザイン等々、次々に輸入されてくる外来デザインの洗礼に対し、日本人デザイナーとしての心の拠り所的な存在であったのではなかろうか。
 という私も「日本美再発見」でタウトを学んだわけなのだが、発掘再整理された資料により編纂された「タウトの撮ったニッポンは」、様々な意味で、新しいタウト像を見せてくれる写真集である。 昔の限られた資料・情報源で理解していた姿と、現在の研究者が あちらこちらで発掘した新資料から得た姿は、相当異なっているといういのは、最近色々な分野で良く目にするが、タウト像も、現代の目で見直すと、かなり印象が異なっていたと言うのが正直な所であった。・・・・・・・・

 さて、アルバムを見る前に本の解説を元に、少し予習をしておこう。
タウトがエリカ・ビテッヒと一緒に、ナチから逃れて日本に来たのは1933年(昭和8年)の事だった。それから3年半の間、日本に滞在し、その後(昭和11年)にトルコへと向かい、彼の地で建築の仕事をしながら生涯を終える。日本では、建築設計はまあり行わず、
工芸指導所で工芸指導を行い、数冊の著書を残す。「ニッポン-ヨーロッパ人の目で見た」「日本文化私観」がその2冊。その後、タウト没後に、原稿を編集して「日本美再発見」「タウト全集」が発行される。その当時は日本は戦時体制であるので、タウトの著書はタウト自身が思いもしない方向で影響を残す事になる。
 というわけで、本来のタウト自身の目線がどのような処にあったのかは、私自身、今まで読んだ本からの理解案では案外わかっていない気がした。
 今回発掘されたアルバムは4冊あり、総計1400枚の写真が貼られているという。その中の150枚がこの本に紹介されてる。解説によれは、写真は総じてピンボケであるらしい。この写真集を見ると本当にピンボケ写真が多い。いきなり気分が楽にる。タウトが残した日本日記はかなり以前に2回出版されているが、今回のアルバムの大きな特徴は、写真の撮られた日と、日記の日付の参照を行い、アルバムの写真とともに、その日の日記も掲載した点であろう。編集者の努力と苦労には頭が下がる思いである。日記併記のおかげて、それぞれの写真の撮られた背景等を良く理解する事ができる。こういうスタイルはどこかで見た事があるなあ と思ったが、良く考えてみると、それは当世の写真ブログで、
現代人には溶け込みやすいスタイルに編集された事には感謝したい。タウトは、現在に生きれいれば、イラストあり、写真ありの良きブログライターであったに違いない。

 さて、カメラについて触れてみよう。当時タウトが使ったカメラはベスト・ポケット・コダック 通称「ベス単」と推定され、カメラが蛇腹で(小型の蛇腹カメラを持っている写真が残っている)フィルムフォーマットが127フィルムという点がその理由のようであるが、筆者としては、もう少し詳しく、カメラ特定の根拠は知りたい所である。127フィルムの小型蛇腹カメラは他も色々存在する。最初のベストコダックが発売されたのは1912年の事。そのヒットを見て、、ドイツ、シュツットガルトのコンテサネッテル社製のピコレットが発表されたのが1915年、コンテサネッテル社がツアイスに併合されたのは1926年のだが、ツアイスになってからも製造を販売は続けられていた。もし、タウトのカメラがコダックであるとすれば、カメラを持っている写真から見て、ベスト・ポケット・コダック(VPK)のB型であるはずだ。レンズが乗った前板の大きさから判断できる。
VPKのB型であれば、固定焦点で、絞りは丸穴タイプでF11からF48までの5段階。シャッタースピードは1/25、1/50 B とT という簡単仕様。当時のフィルム感度がISOで10から30程度とすると、夏の真昼以外はかなり厳しい使い方となる。
明るい昼間は、シャッタースピード 1/50にして、絞りは11前後。 日陰で1/25前後。 室内、曇り、午後遅くという条件では手持ちであるとかなり厳しいという撮影条件。 手持ちで撮ったと考えると、これは、ピントが甘いのではなく、手振れ という事になりそうだ。 
 古い時代の有名作家でカメラ好きという人は、少数ではあるが存在する。「赤毛のアン」の作者として有名なルーシー・モンゴメリ夫人が、実は黎明期のカメラオタクだった事は、日本ではあまり知られていない。 女流のフォトグラファーとしても元祖でははないかと思うが、彼女が撮影している写真を見ると、カメラを膝の上に載せて、固定して撮影をしている。つまり、手振れしないように、撮影状態に配慮している様子がうかがえる。彼女は自分の暗室を持っていて、自家現像、プリントをこなし、地元の雑誌に「写真の勧め」という記事まで書いていた人なので、撮影の技術基本を押さえていて、1800年代末期の四角い箱型のデテクティブカメラを使用し、その時代の写真としてはどれもピントは良く合っている。ピカソも実は写真オタクで、かなり撮影をしていたが、彼もデテクティブカメラを使用し、しっかりピントも来ている・・等々を考えると、タウトはカメラ趣味なわけではなく、日常スナップ写真ユーザで、手振れは気にしないという、少し前までのポラロイドカメラユーザのような写真が多いところが、緊張がなくて和むわけだ 下手な魅力。
 このスペックは、昭和30年代のおもちゃカメラ、スタートにほぼ等しいものがある。
スタートというおもちゃカメラを筆者もかって所有していて、子供の頃に写真を撮ったが(感度はASA30)、手持ち撮影でピントが合っている写真はかなり少ない。同時期に親父のライカを勝手に持ち出して撮影したネガは露出はいい加減だったがピントは来ている事を思うと、手振れはロースペックならではの結果といえそうだ。VPKも、ピコレットも、レンズは良くなり、フォーカシングもできるように進歩して行ったが、タウトのカメラはそんなカメラではなさそうな処が妙に身近に感じられた。1926年頃には量産型のライカも出荷され、タウトが来日した1931年は、ライカのレンズとしては有名な「エルマー」が発表された年でもある。VPKのレンズより格段に明るいレンズであることは言うまでもない。ライカを使っていても不思議はないのだが、あえてベスト・ポケット・コダックを使用していた点は、恐らく、価格の安さ、入手のし易さ、プリントし易さ というメリットがあったからと思われる。
 ベスト版のカメラ・フィルムには以前のカメラと比較して、アマチュアには優位点があった。コダックの当時の広告コピーにあるように、「持つには充分小さく、コンタクト・プリントを取るには充分に大きい 」というのが大きな魅力で、引伸機がなくとも、写真が楽しめるという事である。
 余談ではあるが、マロリー卿がエベレストで初登頂を目指し、登山中に遭難・行方不明になったのが1924年の事で、タウトのカメラと推定されたのと同じカメラ VPK を持って行ったとい事実がある。
1999年、エベレストでマロリー卿の遺体が発見され、カメラが発見されれば、エベレスト初登頂の証拠が発見されるかれないと話題になったが、カメラは当時発見されなかった。後日、氷の中から撮影済みフィルムが発見され、現在コダックにて復元中というニュースが伝わっているが、ネガが再現現像可能であったかどうかは不明なようだ。そのような時代の「写真師でなくても手軽に写真が撮れるカメラ」がVPKである。、
 蛇足ながら1955年にエベレスト登頂成功したヒラリー卿のカメラは、レチナ(ドイツ・コダック 35mmフィルム )であった。
 ベス単のレンズについても触れておこう。日本では、ベス単のレンズはなごみ系で、ソフトフォーカスというイメージが強い。レンズが単玉(実は2枚構成であるし、高級なレンズも使われたが)というイメージ、レンズのフロントカバーの板を外して使用するという技がカメラマニアに流行ったという点もある。フロントフード(カバー)を外すと レンズの口径が大きくなり、大きな収差を生じてソフト・フォーカスレンズになる という改造テクが使えたからだ。当時有名なアメリカのウオーレンサック社のベリトーという名前のソフトフォーカス・スタジオポートレートレンズがあり、相当高価な代物で、その代りに、安い改造ベスタンでソフトフォーカスを撮るというのがその手法である。未だに、ベリトーは高価な骨董レンズであり、安ベス単のレンズを外してデジカメにつけたりするマニアは後を絶たない。そういうマニアのサイトのテスト写真を見ると、フードを外していないベス単レンズは驚くほど鮮明なイメージを残す。ベス単の名誉の為に記せば、レンズは決して、一部の露西亜製なごみ系カメラのレンズのようなオモチャではないのだ。
 さて、話は、タウトの写真に戻る。通常、芸術家、建築家の写真は、なにか狙ったような、主張、表現のある写真が多い中、タウトの写真は、ストレートに普通である。岡本太郎が終戦直後、ライカを片手に日本の田舎を撮影した一連の写真があるが、ものすごい熱気と目線である。タクトの写真は、ガイジンが珍しい日本の風俗を へー って思って、そのまま、作為的な事は考えずに残した映像という印象が強い。タウトの興味がある対象が、そのまま写り込んでいる。実は、この目線が見ると、その著書から理解するタウトと、多少、異なったイメージが浮かんでくる。例外的なのは、日本の近代建築物を撮影した写真で、昔のドイツの建築雑誌の写真 という雰囲気の写真が多く、その部分は異常なまでのプロフェッショナル気質を感じてしまう。また、地方、都会にかかわらず、子供達の写真が多いこと、そして子供達の服の色彩が鮮やかと何度も書いて事が印象的である。
古い時代の日本のモノクロ写真を見ていると、色があった という事を忘れ、昔の光景はセピアかモノクロかという心象風景、あるいは、モノクロ彩色写真のようなイメージがあるのだが、実際には鮮やかな色があったのだと思い出させてくれる。同様に、日本の田舎の風景が、空気が透明で光が強い と書き残し、風景写真を撮ってることも意外で、日本の風景はなんとなく空気が湿度でぼんやりしているという印象が強いからである。日本の田舎の風景、農家が、ドイツの田舎の近い印象という写真と日記も興味深かった。日本とドイツの田舎が似てるんだ?
異文化への興味、関心と温かい目といった雰囲気。時として、野次馬目線、観光写真、記念写真風も出てくる。タウトの目線と日常の風景を追えるのも大きな魅力である。写真と眺めていると、3/4世紀前のニッッポンは現代の日本人にとっても、遠い風景のように感じられる事もある。タウトと同じ目線を所有することにより、どうして、日本で建築設計の仕事をあまり行なわなかったのか? 何故3年半で飽きるように日本を去ったのか? 日本の何に魅力を感じていたのか?そんな答えが写真から返されるのではないかと思う。
最後の最大の謎は、何故写真アルバムを日本に残していったのか? という点で、大きな疑問と共にアルバムは終わった。

  個人的には、この写真集を見終わり、日本での3年半というのは、ドイツ脱出した後の、東洋での休日・充電期間で、充電が終わりトルコへ行ったような印象を受けた。その3年半の著作が、日本のナショナリズム的な見地から捉えられる時代が来るとは夢にも思わなかっただろという気がするが、自分が成し遂げたい建築のビジョン と 日本の状況 は、一致しなかったという事なのかもしれない・・というのが、タウトの著作を読んで数十年ぶりに新しく感じた事である。そういう意味で、やはり見て読まなければいけない一冊。

posted by artlogger at 21:13| 書籍